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映画時評 一年の十二本
藤井仁子(映画評論家)

第十一回『リアル~完全なる首長竜の日~』



第十一回 映画の存立さえ危うくしかねない「真実の声」に導かれて
『リアル〜完全なる首長竜の日〜』

© 2013「リアル~完全なる首長竜の日~」製作委員会



『リアル~完全なる首長竜の日~』
全国東宝系で公開中
監督:黒沢清
2013 / 127分 配給:東宝


 テレビのために撮られた昨年の『贖罪』を除けば『トウキョウソナタ』(2008)以来となる黒沢清の新作が佐藤健と綾瀬はるか主演と聞いて、『回路』(2001)での加藤晴彦と小雪の組みあわせを思い出さずにはいられなかった。ことに綾瀬はるかの四肢の長いすらりとした透明感のある佇まいは、中谷美紀や小西真奈美など、近年顕著な黒沢的女優の系譜にあきらかに属しており、映画を見る前からロング・ショットの室内を端から端へ、浮遊するように足音も立てず通りぬけていく彼女の姿が目に浮かんだものだ。配給が東宝というのも『回路』以来のことで、何かまた、新しい黒沢清がここから始まるような予感に胸が膨らむではないか。
 一方で、中程度の予算規模の作品をこれまで主戦場としてきた黒沢にしては異例の大作でもあり、原作もの、かつCGまでふんだんに使用されているらしいとなると、何の不安もなかったといえば嘘になる。やはり原作ものだった直前の『贖罪』が、連続ドラマという形式上の縛りもあってか、物語の陳腐さを完全に埋めあわせるには至らなかっただけになおさらだ(したたかな女のブラック・コメディである第4話の池脇千鶴篇など、黒沢の新たな挑戦として注目されるべきではあるが)。しかしながら、実際に完成した『リアル 完全なる首長竜の日』は、黒沢清的な主題やモティーフを集成しつつ、それらの持つ意味あいを従来とは異なる段階に向けて変容させた傑出したフィルムだと断言できる。上映時間は黒沢作品として初めて2時間を超えるが、まさに息つく暇もないほどおもしろい。同時に、いかにも現在の黒沢清らしく、厳しい。ここから振り返ることで、『叫』(2007)が黒沢にとってどれほど決定的な転機だったかもあらためて了解されるのだが、それについて書くためには、いくつかのことを先に述べなくてはならない。
 黒沢自身と田中幸子とによる大胆な脚色を経て、物語はSF的な設定から出発しつつ、ときにミステリやホラー、アクションの気味もおびながら、全体としては若い男女の純愛でまっすぐに貫かれる。まず、黒沢映画として、そのことに驚きを禁じえない。動機のわからない自殺を図り、昏睡状態に陥っている恋人で幼なじみの綾瀬はるかを救うため、佐藤健が「センシング」と呼ばれる最新の医療技術によって互いの意識を同期させ、彼女の意識のなかに潜入することになるのだが、最愛の恋人とはいっても他者の意識への潜入は容易ではなく、漫画家である綾瀬の描いていたグロテスクな作品の場面やさまざまな過去の記憶の断片で脳内世界は混濁し、センシングの試みは幾度も反復される。
 テクノロジーと人間の神経中枢とが直結される、このクローネンバーグ風の冒険でそのつど舞台となる、二人が同棲していたマンションの空間が素晴らしい。寝室が別になっているほかはキッチンとリビング、綾瀬の仕事部屋が一つになった天井の高い広大なワンルームで、壁一面に大きく開けた窓から透明な光が射しこみ、ベランダ越しに遠く東京の街並みを見渡せる。その眺望は、ヒッチコックの『ロープ』(1948)のあの印象的なセットを連想させずにはおかないものだが、はたしてここで窓外に見える東京の街並みは、東宝の倉庫で放っておけば廃棄されるのを待つばかりとなっていた、特撮用のミニチュアを再利用したものらしい。ほかにも、脳内世界で行ける限界より先はただスモークに覆われていたり、自動車に乗る際には窓外の景色にいつものスクリーンプロセスがもちいられたりと、CGを大がかりに駆使した作品でありながら、随所でアナログ的な手法が併用されていて、その異なる質感を持った映像の組みあわせが新鮮な印象を残す。もともと黒沢清は、『回路』のワンショットでの飛び降り自殺に典型的だったように、紛れもなく現実に起こった出来事の記録としての実写映像の地位が、デジタル時代を迎えて根底から揺らいでいることに早くから意識的だった作家である。その変化の意義を、映画がこれまで成し遂げてきたものの側から冷静に探ろうとする姿勢において、黒沢の映画的知性は、相対的には狡猾なところもあるピーター・ジャクソンごときの比ではなかった。今回の『リアル』でも、人間の意識活動の視覚化という目論見からすれば、CGを濫用しての作家の個性的な「ヴィジュアル・センス」の誇示に終始しかねないところを聰明に抑制し、そのことでかえって、ここぞという箇所でのCGの効果を高めているところがさすがである。
 まさにそのこととも関連するのだが、かつての黒沢作品と比較したときに驚かされるのは、過去、それも無意識に抑圧されたトラウマ的な記憶とその克服という、およそ従来の黒沢からすれば相応しいとは思えない主題の前面化だ。センシングによって、綾瀬はるかが過去に描いたとされる首長竜の絵が秘密を解く鍵であることが判明し、そこから綾瀬と佐藤健とが幼年期を過ごした島での封印された記憶が浮上するのである。もちろん、以前にも黒沢は、『復讐 運命の訪問者』(1997)や『蛇の道』(1998)といった作品で、哀川翔演じる忌まわしい過去に取り憑かれた男が、復讐へと駆り立てられるさまを描いたことがある。あきらかに両作品で脚本を担当した高橋洋が、黒沢単独では出てきそうにない主題をあえて挑発的に突きつけたものと思われるが、そこでの過去は、さもなくば不条理とも映る外面的なアクションの連続を正当化するための口実としてもっぱら機能しており、主人公の内面に深く降りていくことが問題になっているとはいえなかった。それどころか、これらの作品での哀川翔は、何を考えているのかさっぱりわからない存在で、およそ内面というものを欠いたまま、ただただ復讐の論理によって突き動かされていたからこそ、見る者を戦慄させたのである。では、『リアル』の黒沢清は、具体的なアクションを積み重ねることを放棄してまでも、見えもしない人間心理の複雑な襞をくどくどと説明するクリストファー・ノーラン的なノワール趣味へと退行してしまったというのだろうか。
 おそらく、黒沢清にとって過去というものの位置づけが根本的に変化したのは、『叫』においてである。『叫』について詳しく振り返る余裕はないのだが、そこで忘れられた過去の幽霊は、人間の加害者性そのものを告発する「真実の声」として現れていた。それが、たかだか一個人の内面を行き過ぎるにすぎない良心の呵責とは、決定的に異なっていたことに注意しなければならない。ここでいう人間の加害者性とは、被害者意識の裏返しでしかない加害者意識などではまったくなく、自分がまったくあずかり知らないところで他者に害を加えてしまっているかもしれないという、どこまでも具体的で現実的な可能性のことだ。黒沢清が日本映画の風土から、あるいは端的に日本的な風土から思いきり遠ざかることになるのは、何よりこの点においてである。知らないところで起きたことだから自分のせいではないといくら抗弁してみても、現に受けなくてもいい害を受けた人間が存在し、その人間が「おまえは加害者だ」とこちらを名指しで告発してくるとすれば、それでも知らぬ存ぜぬで通すことができるのか。実際、赤い服を着た『叫』の幽霊が告発する主人公の罪とは、目が合ったのにおまえは私に何もしてくれなかったという、ほとんど理不尽な言いがかりに近いものだ。なのに、「私は死んだ。だから、みんなも死んでください」などと無茶苦茶なことを声はいう。ところで、見るばかりで行為しないことが罪だとすれば、われわれ映画をただ見ている者は、この告発を自分だけ無傷でやりすごすことができるのか。
 紛れもなく『叫』以後に位置している『リアル』の恋人たちを苛む過去は、正体不明の少年の幽霊めいた姿や見棄てられたような島の風景としてあくまでも具体的に現れ、ついには本当に首長竜までをも出現させる。最新鋭のCGを含むすべての映像技法は、ここではそうした「真実の声」に、個人の内面に響く良心の声には決して回収することのできない、圧倒的な現実感を持たせるためにもちいられているといってよい。恋人たちが現在暮らしている東京と、二人が過去を過ごした島とを隔てる海は、まったくもって黒沢清的というしかないことに、相容れない者どうしが両岸で対峙する「川」として拡がっている。この「川」の向こう岸から、おまえは知っていたのに今まで何もしてこなかったと声がいうのだ。
 その声におのれ自身の加害者性との直面を強いられながら、『リアル』を見る者は、地震も原発も登場しないこの映画ほど、真に「3・11」以後を生きてしまった映画はほかにはありえないだろうことを理解する。仮に昏睡状態からの覚醒が実現するとしても、目覚めた先は、何も知らなかった以前のあまやかな世界ではもはやありえず、自分もまた加害者であることを知ってしまった後の仮借なき世界なのである。

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